当協会のディレクター神山が私達のキャンプにこれまで参加してくれた
若者達にあてたメッセージシリーズの第1弾です。
今年の11月18日、日本のプロ野球、日本シリーズの終了直後に書かれました。
私達のキャンプに関わってくれている方々だけでなく、
広く皆さんに読んでいただければと思い、ブログでも掲載することにしました。
以下、引用です。
人通りが多いところに立って、そこを通りかかる人達を見ても、人間的に何かを感じることはあまり無い。 皆それぞれ違った興味深い人生を送っているにも関 わらず、彼らとの接点がないがゆえに、ただの「物体としての人間」として捉えるだけで、そこに建っているビルと大差ない存在のように感じてしまう。
テレビを見ても同じだ。
しかし、通りすがりでも、テレビに出てきた人でも、もし君が前もってその人に関して何かを知っていたり、どこかで接点があったなら、その人が唯の物体としての人間ではなく、とても近い、仲間的な存在になるだろう。
長く生きていると、自分が歩んで来た人生のあちこちで会ったいろいろな人との出会いを思いだす。 其の中で君達が知っている人も居ると思うので、これから少しずつ機会ある度に、そのことに関して書いていこうと思う。
良かったら参考にしてください。
今年の日本シリーズは西武が優勝した。 ちょっと残念。
私はあまり巨人が好きではないが、原の方が西武の監督の渡辺よりも身近に感じるので、今回は巨人に優勝してもらいたいと思っていた。
なぜかと言うと、私は彼が子供の頃から知っているからである。
1960年代、2流大学と言われていた東海大学は、当時の総長であった松前さんが、どうしたら大学とその付属校の名を高めることが出来るかに苦心していた。 そして出した結論は、「日本全国、誰もが好感を持っている甲子園野球を利用しよう」と言うことになった。
甲子園に出てよい成績を収めれば、学校のイメージが上がり、生徒数が増える、そして其の勢いで大学の野球部も強くすれば、大学のイメージもよくな り、2流大学の汚名も無くなると言う事だ。 それにはまず一流の監督を雇う必要があると言うことになり、甲子園で優勝した学校の監督を雇う事が決まった。
私が第47回夏季甲子園大会に東京代表として出場した年(1965年)、九州の三池工業高校と言う、あまり名の知られていない高校が甲子園に出て きた。 その時の優勝候補は春に全国優勝した岡山東(この学校を私達は神様の力を借りて破った)、銚子高校、北海高校、報徳学園等であったが、どういう訳 か、あれよあれよと言う間に三池が勝ち続け、ついに優勝してしまった。
そして、その時三池工業高校の監督であった原は東海大相模校の野球部監督に雇われ甲子園に何度も出場し、そのうち彼の息子も甲子園に出て活躍した。其の息子が現巨人監督の原 辰徳である。
私が大学に進み、4年の春、3塁手として東都大学リーグで優勝し、全日本大学野球選手権大会に出場した。 我々は順調に勝ち進み、いよいよ決勝戦 となった。 相手は元東都大学リーグ3、4部にフラフラしていたが、とても一部にあがれないので5,6校一緒に東都大学リーグを脱出して新しく首都大学 リーグというのを結成し、そこで優勝して出てきた東海大学。
彼らの準決勝の試合を見学した我々は、大して強そうでもないので、「もう勝ったも同然」とタカをくくり、早々に次の日の優勝パーティーの準備を始めた。
そうして、いよいよ次の日の決勝戦、神宮球場に向かうバスの中は早くも優勝ムード。 しかし、球場に着いて見ると、一塁側、相手のベンチの上は人 で一杯、2万人くらい。 こちら側は暴力団まがいの我が校応援団以外は人影はあまりない。 ちょっといやなムード。 いざ試合が始まって見ると、当然勝て るつもりが、なんだかすべてが上手く行かず、気がついたら負けてしまった。
油断大敵、「実力よりもやる気がすべての結果を導く」
―――油断が原因で負けたのはこれが3度目。 人間3回位まで手痛い失敗を繰り返さないと、治らないようだ。
私が大学を卒業した後、原のお父さんが東海大学の監督になり、辰徳が大学に入ってきて活躍し、その後巨人に入団した。
私は日本を飛び出しアメリカに来たが、一緒に野球をやってきた仲間達は、大金をもらってプロに進み、エースになったり、リーディングヒッターになったりして大活躍した。
他方、私はニューヨーク、セントラルパークの草野球で汗を流した ――― 同じ野球でもぜんぜん違う?
いや、私にとっては同じであった。 何故ならば、人に迷惑をかけなければ、どんなことをやっていても、自分さえ納得できればそれで良いからである。
感謝
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